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米原万里『真夜中の太陽』(中公文庫)(2)

 これは子供の頃から警察官に慣れ親しんできたことから、警察官、特に刑事の優秀さをよく知つてゐるつもりなので、私も同じことを思ひ、不思議に思つたことだつた。

 エッセイのタイトルは「記憶代行装置」。

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同じ新潟女性監禁事件絡みの警察の失態なのに、ニュースになったものの、大して注目を集めなかった出来事がある。容疑者の佐藤某が以前にも類似の少女拉致未遂事件を起こしていて逮捕歴があったというのに、その事実をデータベースに入力し忘れていた。そのために、失踪した女性を探す警察の捜査線上に一度も佐藤某は浮かんでこなかったというのだ。(46)
 事件は、データ入力担当警察官とそれを指導する立場にあった上梓の落ち度として処理され、最近多発する警察の不祥事として十把ひとからげに片づけられてしまった。
 しかしこれは、考えれば考えるほど恐ろしいことではないか。われわれ人類が蝕まれつつある不気味なプロセスを検出してくれた出来事である気がしてならない。(中略)
 おそらく、警察官は、自分の足と目と耳で経験した事実を、しっかりと脳裏に刻みつけているはずだ。そういう無数の経験は、一人一人の警察官の頭の中に蓄えられていくに違いない。これころ一種のデータベースだ。そして、何か類似の事件に遭遇したときに、その長年の蓄えの中から必要な情報が溢れ出てくるものだ。(中略)
 コンピューターのデータベースに入力し忘れた担当官を責める前に、なぜ、歩くデータベースとも言える警察官たちに当たらなかったのか、なぜかつて容疑者を逮捕したことのある警官は、思い出さなかったのだろう。人間のデータベース能力も使わずにいるとどんどん衰えるのかもしれない。(47-48)
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 父とよく家で麻雀をしてゐた刑事さんたちは、あまり写りがよくない犯人の顔写真を手がかりに、街なかをひたすら歩き回り、潜伏してゐる犯人を見つけ出してゐた。

 私がまだ高校生ぐらゐだつた時、公園のベンチに坐つてゐる知り合ひの刑事さんを見つけて、「何をしてゐるんですか」と声をかけたら、当時は有名だつた事件の「爆弾犯を探してゐるんだよ」。

 こんなに地道に捜査をしてゐるのかと、私は感動を覚えた。「データ入力を忘れた」などどうでもいい問題のはずなのに . . .
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荒川洋治『世間入門』(五柳書院)その3

 本は買はなければ身につかない、とは昔からよく言はれてゐること。
 
 買つて読んだからと言つて、必ず身につくわけでもないだらうが、本には買はなければ吸収できない栄養素があることは間違ひない。

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図書館で読む、ということは、自分のお金をつかわなかったことということでもある。ものを学ぼうという人がすぐ図書館の所蔵品に頼るのは、こんなに豊かになった日本人にあっても変わらない習慣らしい。図書館の利用はいい。しかし自分のお金を出して買った本と、借りた本では、同じ本でも読むときの姿勢がちがう。(182)
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 小学校や中学、高校の図書館で、毎日のように本を借りては読んでいた、いわゆる読書好きのクラスメート。感心したものだ。だが彼ら、彼女らの多くは、学校を出ると、ぱたっと本を読まなくなる。あの豹変ぶりは注目に値する。「図書館読書」とほんものの読書はときどき、すれちがうのである。(183)
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(完)

祈りの力(8)

  病氣の話を中心に据ゑるつもりではなかつたのだが、最初から「とりとめのない話」になる可能性を半ば宣言した上での展開だから、まあ良いか。

 病氣の場合には、「治療」といふ行為があり、「治る」(あるいは治らなかつた」)といふ歴然とした結果が伴ふので、わかりやすい例として、つい話が長くなつてしまつた。

 「祈り」の効果はなにも病氣にだけ限られたことではない。祈る、念ずる、氣合ひを入れる、やる氣を出させる、などなど、自分以外の「なにか」に(場合によつては、すがる思ひで)心の中のエネルギーを送りこむ行為は、ごく日常的な振る舞ひである。

 母から聞いた祖父の指圧の威力や叔父の治療力を思ひ浮かべつつ、我が家系に流れる血筋を思ひ起こすと、私自身の中にも治療力にとどまらない、なにかエネルギーのやうなものを発する動力源ないし源泉が與へられゐることに思ひいたる。

 まだ私が二十歳そこそこの時に、ある人から言はれた言葉がふと蘇つてくる。「あなたは将来は指導的な立場に身を置かなければならない人で、あなたが指導者にならないと周囲の人たちが不幸になるのだから、よくそれを自覚して行動しないといけない」。その人は叔父の家に治療に来てゐた患者さんでもある、不思議な人だつた。

 私が今の部署の責任者になつてから、それまで何年も続いてゐた業務上の紛糾した状態、社長が会議で怒鳴るほどの失態に次ぐ失態が、悪夢だつたかのごとく消えてしまつたことは、これまでも触れた話題だが、私には「敵がゐないからですよ」といふ課長の言葉では説明しきれないほど、物事が順調に運ばれていく「流れ」が急に
社内に出来上がつたことや、「私は大したことは何もしてゐない」といふ自覚とは裏腹に、他の部署の責任者たちから最近益々頼られて「お力添えを頂きたい」とか「会議の席上で、どうか全員に命令してください。さうしていただけると私たちが助かりますので。私たちが何度言つても効き目がないので」などと陳情が続くと、内心では「私を買ひかぶりすぎてゐるが、その根拠はなんなのだらう」と思つてしまふ。しかし、さういふ重要な「役割」あるいは「使命」を與へられてゐるのなら、人のために盡くさないわけにもゆかない。個人主義で集団が苦手だつたはずの私も変はれば変はるものだと、自分でも可笑しくなる。

 能力といふものは他人の評価で決まるものであり、他人のはうが精確に見極めてゐるものだ。

 2,3年前になるが、研修会の若い人たちが集まつて忘年会をしてゐた時に、国家試験を控へてゐた一人が、いきなり私に向かつて「エネルギーを下さい!」と近寄つてきたことがある。急なことで、しかも「エネルギー」などといふ言葉を使はれたことに私は一瞬戸惑ひすら覺えたが、じつは、大なり小なり、私を一種の「柱」にして、心の中で最後の砦のように慕つて研修に励んでくれてゐる人たちは、最終的にはそれぞれにふさはしい道、それぞれの目指してゐる道へと進んでいくことが圧倒的に多い。もちろん、この人も国家試験に合格した。少し長く生きてゐると、不思議ではすまされない「證拠」がかうして積み重なつてくる。この人も、私自身は気づいてゐなかつた「何か」を感じとつて、それをエネルギーと表現したのだらう。

 指圧とは別に、私がもつてゐるらしい「エネルギー」を人に伝へたい場合、いちばん簡単で明確に効果が出る方法は、今のところは「祈る」ことである。

 「苦しいときの神頼み」のやうな祈りは、目先の願ひごとを実現するのが最大にして唯一の目的だらうが、「本物の祈り」(?)は目先の目的実現ではなく、「その人にとつて一番良い方向へとつながる結果」をもたらしてくれるといふ。それは私自身の体験からも、さうだらうと思ふ。

 「祈り」をテーマにしてゐる研究者や科学者・医学者も言つてゐるやうに、祈りは宗教と切り離して考へたはうがよい。人間の一つの能力として捉へ、実践的な活用を目指すとしたら、やはり一種の訓練が必要になる。素質の大小はあるだらうが、超能力ではないので、繰り返しによつて、祈りの力を身につけることは誰にでも可能である。
そして、日常生活と同様、祈りでも「ことば」が大事である。

 一種の薬としての祈りから、もつと広い効果を生み出す祈りまで、祈りの幅も広い。その効果を実感してゐる者として、今後の学術的な研究がどのやうな成果をもたらすのか、少しだけ期待してみたい。(完)

祈りの力(7)

 プラシーボ効果との決定的な違ひといふのは、患者には知らせてゐない點である。

 つまり、プラシーボ効果は、患者に何に効く薬かを知らせた上で行なつた調査の結果であるが、祈りの場合には本人には知らせずに行なつてゐるといふ點がまつたく違ふのだ。

 私が「
祈りの力(4)」で例に挙げたアメリカでの実験も、祈つてゐる人たちがゐることを、二人の患者には一切知らせてゐない。その上での結果だからこそ、有意なのである。

 この効果について、遺伝子といふミクロのレベルから研究するといふのは、成果が期待できるかも知れない。私は「結果」を重視するタイプなので、「やはり祈りは効果がある」と證明されること自體には、あまり関心がないのだが、もし効果を引き出してゐるメカニズムが少しでもわかるのなら、それは知りたいと思ふ。

 また、プラシーボ効果自體も人間の不思議な能力の一端を示してゐる重要な現象として、それはそれでもつと注目しても良いのではないか。「効く」と思つただけで、自然治癒力が発揮されるのなら、まさに「病は氣から」であり「恢復も氣から」といふことになる。さう思ひながら「病氣」といふ言葉をみると、「病」+「氣」であることに、今さらながら感心してしまふ。薬の力を借りても治らない病氣が、自力で全快にもつていけるのなら、その力を活用できる道を探るのは、医薬品の開発よりも実践的と言えるのではないか。

 

祈りの力(6)

  「笑ひ」が健康に良いことはほぼ常識になつてゐるが、笑ひと遺伝子の関係を扱つた医学の博士論文もあるさうで、最近では心と遺伝子の関係をテーマにしてゐる研究者も珍しくはなくなつてきてゐる。
 
 「祈り」の治療効果についても研究が始まり、現在はコロンビア大学やハーバード大学でその研究に助成金を出してをり、日本でも祈りと遺伝子の関係をテーマにしてゐる
国立大学の研究者がゐる。

 いきなり「祈りと治療効果」などといふと、胡散臭い目で見られてしまひさうで、研究者たちは研究とは別の次元の苦労を味はつてゐるのではないかと心配になるが、アメリカの研究では明らかに「祈り」が病氣の治療に効果を上げてゐるのだといふ。

 医薬品でさへ必ず効くわけではないのだから、祈りが効果を上げる場合があるのなら、研究者がその「結果」を重んじて、できればメカニズムを解明したいと思ふのは当然のこととも思ふが、理解のない人たちからの風当たりはどうなのだらう。

 新薬を開発するときに、効き目を確かめるために行なう偽薬のテストがあるが、有効成分が入つてゐない薬や、単なる澱粉のやうな粉でさへ「これは絶対に効きます」といつて飲ませると、効いてしまふプラシーボ効果と「祈りの効果」は絶対的に違つてゐる點がある。

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