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辻原 登『熊野でプルーストを読む』(3)

 昨日に引き続き、「『おんなを描く』ということ」。

 「近代化」「近代人」と「主体」や「自己」を巡る、西欧と日本の小説家の対応の仕方の違ひについて、辻原は「女性」を軸にして考へてみる。

.........................................
 近代化する、とは近代人になる、ということだ。近代人という「主体」になることだ。ところが、それまでの日本では主体というものを語る必要がなかった。近代化の過程で、はじめて、世界、あるいは普遍性の文脈で何かを語らなければならない、そういう語る「主体」が必要になった。あるいはそういう主体にみあう現実というものをつくりださなければならなくなった。
 彼地(あっち)では、ロシアも含め、キリスト教という宗教による技術訓練のもとで、「主体」、【ここまでp. 86】 「自己」が習得されたが、あいにく此地(こっち)にはそんな訓練機関はない。
 このことは、近代小説においては主人公をどう立てるか、ということにつきる。主人公——主体。神、あるいは絶対者と対話し、対決、対峙する「われ」。
 絶対者はない。近代技術は模像によって習得することができるが、絶対者は模像することができない。そこでわれわれの先輩は、「おんな:を、仮りに、主人公に対峙するものとして持ってきた。なぜなら、「おんな」だけが、わが日本文芸の中で唯一の個性ある存在だったからだ。
 「おんな」とあいわたり、功名を立てようとする「私」なり「彼」。
 「おんな」とは、くろうと筋の女をさす。伝統の根は深い。唐代伝奇にまでさかのぼる、花柳の世界とそこに出入りする男。花柳小説の継承である。
 この花柳小説をロシアの小説の合体したものが、みのりをもたらし、数々の傑作を生みだした。アンナやナスターシャやソーニャ。数々の薄幸の、身を売る女たち。江口の遊女や近松や西鶴の女たちに彼女らが合体する。
 紅葉、荷風、谷崎、舟橋聖一らの花柳小説にかぎらない。独特の「私小説」においても、「おんな」とあいわたり、功名をたてようとする「私」の心情と行動が連綿とつづられる。
 ……しかし、この命脈もいまやつきた。「おんな」はもはやどこにも存在しない。(87)

(つづく)
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 昨日に引き続き、「『おんなを描く』ということ」。 「近代化」「近代人」と「主体」や「自己」を巡る、西欧と日本の小説家の対応の仕方の違ひについて、辻原は「女性」を軸にし...

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